あくいの孫

25歳でまだ大学生やってる人間です

伊豆への逃避行

 小学生の赤白帽の紐みたく、デロデロに間延びした私の大学生活も、今年で終わりになる。就職先も決まり、あとは少しの単位を取るだけという状況になって、私は夏に入る前にある決意をした。
「田舎に篭ろう」
 今卒論で大正期の人間について研究をしているが、その人間は社会運動に参加した折に捕まって監獄に入れられたが、その中で欲を御しながら、自らが大成するための研究を続けていたという。
 東京都内にある我が家は、監獄というには物が溢れ過ぎており、しかも部屋は私自身の精神のうちを表したかのように散乱している。同居する父親には、「お前の部屋が汚いせいで家に虫がわく」などと難癖をつけられる始末。
 そして、父の言葉をうるさい、わかったの二言で一蹴した私の虫のような精神性は、都会の人間が起こす田舎への憧れと、現代の人間が起こす過去への回帰欲に塗れていた。
 最近研究が上手くいかず、頭の整理がつかないからと研究会を放り出した私は、やはり一向に研究が進まずにいた。ただ、研究に一度でも没頭、もしくはその思い溢るるという者は少なからず一度、晴耕雨読という言葉に憧れを覚えたのではないか。私は、晴れても雨でも何も産まず、ただ私を唯一慰めるベッドの上で猫のようにうずくまるという、真逆の状況におり、その言葉に一種の救いを見出していた。そしてその言葉と共に思い出すのは伊豆にある祖母の家だった。
 祖母の家には、家の敷地にある畑が一つ、少し歩いて麦を育てる畑が一つ、鶏を放し飼いしながらみかんやナス、オクラなどを育てる畑が一つある。育てた作物を売りに出しているわけではないので、少し広めの家庭菜園といった感覚だが、それでも一人で取り組むには全くもって十分な広さをしていた。
 場所は海に程近く、自転車を10分も転がせば砂浜で黄昏る自分を演出できるような場所にあった。昼間は海からの撫でるような風がここまで届き、夏は非常に心地よく、しかし冬は窓ガラスを揺らし、外への恐怖を掻き立ててくる。
 今回は運良く夏。夏の暑さを逃すまいと、抱きしめて離さないコンクリートが、最近いよいよその暑さと溶け合い始めたという東京。あまり避暑地というイメージはないものの、風のある分、伊豆の方がよほど過ごしやすいと言える。
 そうして、昨年祖父が亡くなり寂しくしているであろう祖母の農作業を手伝うためまた、一向に進まない卒論を進めんがため、という名目のもと、伊豆にある家に二週間ほど飛び込むことにしたのだ。