あくいの孫

25歳でまだ大学生やってる人間です

グエル・ジェタークが生存したことの意味とは

 みなさん、水星の魔女23話見ましたか?いや~面白かったですねぇ。いきなりスレッタとエリクトの姉妹喧嘩から始まって、どう終わるんだろう......なんて思いながら、クワイエットゼロ内部でも、ミオリネとベルメリアさん、エラン5号君VSママンが始まって、誰か死ぬんじゃないかってそわそわするし、その間に議会連合のおっさんたちは、ガンダムお馴染みのコロニーレーザー的大出力兵器持ち出してくるわで、今回も濃厚すぎてめっちゃ良かった!
 そして、今回目玉の一つでもある、決着のついたグエルVSラウダの兄弟喧嘩。
グエル生きてて良かったー!あとシュバルゼッテは刀振り上げるモーションが侍っぽくてちょっと好きでした。とにかくよかったー!フェルシーよくやった!!!

 Twitterでもこの兄弟喧嘩で大盛り上がりで、「#水星の魔女」で検索するとこのシーンについての感想が上位占めてた印象でした。その中でも特に、「あの流れでよくグエル生きてたな」って感じのコメントが散見されました。
確かに、歴代ガンダムのなかで、あの流れならグエル絶対死んでましたよ、1stのララァしかり、Zのフォウしかり。そういう意味で今回グエルが生き残ったのは「歴史的快挙」だなんて感想まで。

 水星の魔女という作品自体、令和という新しい時代に初めてMSの戦争を描いたTVシリーズでありながら、歴代ガンダムのオマージュまみれというかなりの異色作。22話だけで言っても、白目剥いたアムロとミオリネ、キャリバーンとFAユニコーン、生身フェンシング、たぶん知らないだけでもっとあるでしょう。過去のオマージュを可能な限り盛り込みました!って感じがして、製作陣お疲れ様です、ありがとうございます。(生身フェンシングについては無理があろうと......)

 という風に、これまでの「ガンダム」という箱を令和に組み替えていくシステムがとられた中で、この「グエル生存」は唯一と言っていい、十八番破りだったんじゃないでしょうか。
 でも、1st seasonでグエルはヴィム殺しちゃってるし、これまで頑なに定番を踏まえていったのにここだけ何故?ヴィム殺した時との違いは?昨今キャラクター人気がすさまじいから、グエル殺すの躊躇った?なんて思いましたが、水星の魔女も「ガンダム」。であるなら、戦争のなかのヒューマンドラマとして、ただキャラクターが死ななかったこと以上に、伝えたいメッセージがあったのではないかと思ったので、それについて検証してみようと思います。
(参考作品として、筆者はVとAGEが見た事無いのでそれら省いたTVシリーズに関して触れていきます。Vに関してはいっぱい死ぬの怖いので......)

 

 そもそも今回の兄弟喧嘩及び1st seasonのヴィム殺しは、「ガンダム」の歴史で言えばどういう図式に当てはまるのか。おそらく類似例を挙げれば先ほど挙げたララァとフォウ、それ以外にもZZのプルやSEEDのフレイ、DESTINYのステラなど、キリがないでしょう。今回はガンダム史上の意味を理解するため、もう少し厳格な定義を設けてみます。
 まず、この2つに共通する点として挙げられるのが
①味方(に成り得る者)同士の殺し合い
②直接殺したことを後悔して、それを乗り越えて相手を理解する
の2点。①については言うまでもないので省きますが、②についてはグエルが直後に理解しているわけではないですが、後にジェターク社を継いでいることがその証左と言えるでしょう。

 では、この2点の定義は「ガンダム」の図式としてどうなのかというと、例えば1stガンダムの主人公アムロ・レイララァ・スン
アムロララァは直接戦う前に一度会っており、その時点で互いに惹かれ合っています。そして戦闘中でも、彼女はアムロに対して「貴方の来るのが遅すぎたのよ。」と言っており、逆説的に言えば、彼女とアムロが共に歩む可能性も存在していたわけです。②ララァがシャアを庇ったためアムロは誤って殺してしまうのですが、エルメス爆発直前のシーンで「君ともこうしてわかりあえた」と言っています。また、アムロは戦闘中、ララァから「守るべき人も守るべきものも無い」のに戦っていることを指摘され、憤っています。しかしア・バオア・クー最終決戦後、コアファイターで脱出したアムロは「まだ僕には帰れる所があるんだ。こんなに嬉しいことはない」と言っており、そういう意味でもララァの考えを理解したと言えるでしょう。

 もう一つここで挙げておきたいのはここ数年でも話題性の欠かないガンダムUCから、リディ・マーセナスマリーダ・クルス
①これについては少し微妙なところですが、実際マリーダはリディの説得をあと一歩のところまで来ていました。しかし、ビームマグナムに手を触れたことでそのまま撃ち殺してしまいます。ですが、マリーダが精神を通して改めてリディを説得したことで、リディは味方となっています。
②マリーダの説得直前、リディの中には彼を否定するミネバのイメージで埋め尽くされていました。しかし、精神を通して「落ち着いて周りを見渡せばいい。世界は広い。こんなにもたくさんの人が響き合っている。」というマリーダが声だけを聞かせたことで、それまでミネバに執着していた彼の中にようやく他の人の声が響くようになりました。

 他に該当しそうなところで言えば、Gガンダムのドモンと東方不敗ガンダムWのカトルとトロワ、Gレコのベルリとデレンセンぐらいでしょうか。Zのカミーユとロザミアも該当しそうに思えますが、これは直接手を下してはいても、カミーユはロザミアを殺したことを考えないように、仕方のないことと片付けているので②に当てはまりません。(これはこれできつい、そら精神崩壊するわ。)

 

 では、これだけ過去に殺してきた例があるわけですが、じゃあ殺して理解する描写の意味って何だ、という話。それにはまず、「ガンダム」における殺人についての考察から始めねばなりません。
 殺人とは究極の暴力です。それゆえ殺人にはそれに相当するだけの力を加える必要があります。素手であれば、腕力に応じてたくさん殴る必要がありますし、刃物ならば、正確に狙って刺したり切ったりして腕を振る必要があります。銃であれば、それを持って狙って撃って反動に耐える必要があります。じゃあMS(モビルスーツ)であれば?狙ってスイッチを押すだけです。先に挙げた三つは何らかの反動があります。素手なら疲れて拳は痛む。刃物なら腕が疲れる。銃ならその反動。もちろんMSが銃を撃った時、振動はあるかもしれませんが、自分で身体を動かして銃を撃つより疲れないでしょう。
 そのうえで大きく違うのが、相手の反応が返ってこないことです。「ガンダム」において敵のMSとの通信にはMS同士が触れ合っている状態、接触回線が開かれていなければいけません。なので、例えばビームライフルを撃って敵のMSを破壊しても、パイロットの断末魔は聞こえてこないですし、最悪死体も残りません。これは外伝作品の設定ですが、宇宙では音がせず、発生している音は全てMSの内蔵機能のため、人によっては設定音をゲームの効果音に変えて、恐怖を紛らわせていたという話もあります。(Ark Perfomance『機動戦士ガンダム 光芒のア・バオア・クー』より)
 何が言いたいかというと、それだけ自分の振るっている力に無自覚になりやすいということです。ですが、何か反応が返ってきた場合どうでしょう。アメリカではイラク戦争後、帰還兵のPTSDが社会問題化しました。それ以前にもベトナム戦争帰還兵がPTSDになった例も多く、『ランボー』でも主人公の帰還兵は戦時中のトラウマからPTSDと思われる症状を患っていました。また、『暴力の哲学』を書いた酒井隆史は、その本の中で人間と武器の関係性について、1992年にアメリカで公開された『juice』という映画の描写について「暴力的装置を人間が手段として使いこなす、ということは幻想に過ぎない。むしろいつのまにか、人間の方が暴力的装置に使いこなされ、振り回される」と述べています。
 では、先の挙げたアムロの例ついてはどうでしょうか。アムロはそれまで、戦うことについて無自覚でした。基本的には目の前にやって来た敵を迎え撃つということが多く、それまで見た敵の死はランバ・ラルくらいでしょう。アムロララァを殺した後、ようやく「取り返しのつかないことを」したと自覚しています。アムロにはララァを殺すつもりは無かったのでしょう。そのトラウマ的体験を経てようやく自らの力、ニュータイプ(NT)に自覚的になっていきます。その後最終決戦に向かったアムロは、当初シャアとの闘いに執着しておらず、「本当の倒すべき相手」(ザビ家)を認識し、その力の使い方を自ら決めています。
 リディの例はもっと個人化された感情が含まれています。そもそも彼が敵対した理由の一端はミネバという自分が選んだ女性に否定されたことにあります。もちろん最初は同じ血統に囚われた立場であるミネバを救いたいという思いから来ていましたが、途中ミネバが自分の意志で動く事を決めたことで、リディの庇護下を離れます。ミネバを救うことで疑似的に自らも救われようとしていた彼はミネバに対する執着を強めます。その結果、彼の中で自らを否定する声が増幅してしまい、その否定に対抗しようとビームマグナムでマリーダを殺してしまいます。しかし、そこで自分が殺した相手の声を聞いたことで自らの行いの取り返しのつかなさを理解し、「俺は何をしたんだ」と呟いています。そして、リディもNTとしての力に自覚的になります。
(ちなみに、銃は男性性の隠喩とも見ることができ、否定したミネバを銃で撃つことで彼女に支配的になろうとした、要は自分は女性を支配できる男であることを示そうとした、とも取れます。そういう意味ではミネバは非常に自律した女性として描かれていたように感じます。)
 以上のように、彼らは自らの力に対して、その程度を正確に把握しておらず、その使い道さえ、本当の意味で自由に決めることができなかったのです。つまり「ガンダム」における殺人は、殺した側がその力に自覚的になる、つまりは理性を獲得するきっかけとして捉えることができるのです。
 

 では前置きが長くなりましたが、水星の魔女においてはいかがでしょうか。
 まず、1st seasonでのヴィム殺しについて。グエルは当初学園最強のパイロットであり、好き放題力を振るうガキ大将的キャラでした。しかし、スレッタに敗れ、その後も決闘に連敗したことで、父ヴィムから絶縁を言い渡され、学園からも追放させられてしまいました。この時点でグエルはミオリネからも指摘されていますが、「父親の言いなり」である自分を恥じています。その中でスレッタ・マーキュリーという自分を超える存在に出会い、彼女と並ぶ存在になろうと意識し始めます。
(この時点でリディに対するミネバとは違い、スレッタを庇護するものではなく、目指すものとして意識している点に違いがあります。)
 そして問題のヴィムとの戦闘ですが、当初グエルは自分を狙うヴィムのディランザ・ソルを撃つのを躊躇う描写があります。しかし、死にたくないという思いに加え、スレッタに並び立つ男になることを考え、力を振るう決意をします。そしてデスルターのヒートナイフでコックピットを刺しました。しかし、この瞬間のグエルにはコックピットを刺した自覚がありません。それは当然で、これまでの決闘ではMSに敵のコックピットを狙わないようシステムで制限されていたからです。グエルにはコックピットを刺したら相手が死ぬという単純な力の帰結さえ理解できていませんでした。そして、その相手が父ヴィムであることがわかります。父を乗り越え、好きな相手に並び立とうとしたら本当に父を殺してしまったのです。
 その後拉致され、地球での凄惨な体験を経て、父との繋がりを維持するためにジェターク社を継ぐことを決意します。グエルはこれ以降シャディク戦、そしてラウダ戦の2回MSにのりますが、2回とも不殺を徹底しています。これが今までの「ガンダム」との違いです。これまでの「ガンダム」では、あくまで力に理性的になったというだけで、殺人を躊躇うことはありません。それは彼らが軍人だったからで、向かってくる敵を殺す必要がありました。自身の殺人に対する罪の意識というのは、そのトラウマ的描写のみで、役割を果たすことがある種贖罪だったのかもしれません。しかし、グエルは自身の殺人を徹底的に秘匿し、弟ラウダにも話していません。不殺を貫いたのも、罪の意識ゆえでしょう。つまり、これまでの「ガンダム」と違い、力に理性的であることは、殺人をしないことと見なし、また殺人は一生消えない罪として抱えていくという風に受け取っているのです。
 このように受け取れる描写はグエル以外にもあり、例えば23話でエラン5号がケナンジに対し、「今度は死なせないから」と皮肉っていましたが、軍人であるケナンジに対しても、殺人は罪であると意識させているのです。あとはスレッタがミオリネを守るために人を殺したシーンも異常にグロテスクに描写されていました。これも殺人という行為が異常であることを強く示しているのではないでしょうか。

 では、ようやく本題の兄弟喧嘩です。ラウダは、父ヴィムがテロに巻き込まれて亡くなり、ジェターク社の代理のCEOを務めなければなりませんでした。しかし、尊敬する兄グエルが突然学園に戻って来てジェターク社を継ぐと言い出しますが、以前より会話がしてもらえません。またノレアの暴走のために恋人ペトラも意識不明になり、しかもその兄が事故とはいえ父親を殺したことを偶然知り、もうめちゃくちゃです。とりあえず一番近くにいたミオリネが悪いと決めて、ミオリネを殺すことを決意します。ここで少しリディの例との類似としているように見えますが、リディは自らを肯定するために動いているのに対し、ラウダはグエルをミオリネから取り戻すために動いているため、この時点で力を振るう理由が大きく異なります。
 シュバルゼッテを駆る彼は、機体の性能差でグエルのディランザを圧倒し、戦闘中これまで尊敬していた兄を超えられると思い込みます。そしてラウダは、自分の言うことを聞かないグエルを父殺しの罪やミオリネを正さない罪から解放し、自分がその罪を背負うために、グエルを殺すことを決意します。ここでグエルは、その力からラウダを開放するためにわざとシュバルゼッテに刺されることで、その源である額のシェルユニットを破壊します。グエルを刺した事、そしてガンダムという力の象徴を失ったことで、ラウダは冷静さを取り戻します。しかし、グエルのディランザは爆発してしまう、といったところでフェルシーが消火剤(?)を撃ち込んで、爆発を回避、グエルは生存します。
 先ほども述べたように、このシーンでのラウダの力を振るう目的は、ミオリネからグエルを取り戻すことです。更に言えば、昔と違い何も話してくれなくなったグエルにもう一度頼られるようになることと言えます。当初はそのためにミオリネを殺そうとしていましたが、途中からその手段がグエル本人を正し、かつての尊敬する兄としてのグエルを守ることへ変化しています。それはシュバルゼッテの行き過ぎた力によって、兄を殺すという手段が手に入ったからであり、そのために本人を殺しても構わないと考えることができたのでしょう。
 これについて改めて考察すると、水星の魔女特有の考え方として見えてくることが2点あります。
 1つ目は、力は取り上げることが可能である、という点です。ラウダの搭乗機はもともと専用のディランザで、決闘でのランクはグエルより下です。実際グエルほどの実力はなかったのでしょう。にもかかわらず、シュバルゼッテによってグエルを超える力を付け、その力で兄を殺そうとしました。ですが最終的にシュバルゼッテは額のシェルユニットが破壊されたことでガンダムとしての力を失います。この瞬間ラウダは冷静になるのですが、これは行き過ぎた力を持つことで理性を失うのであれば、力を持たせなければいい、という理屈になります。基本的にこれまでは力に相応の理性を持つことを掲げ、強い敵の力にはより強い力で対抗してきた「ガンダム」にとって新しい指針と言えるでしょう。
 そしてもう一つが、子どもが無理に大人になる必要はない、ということです。これが今回グエル・ジェタークが生存したことの意味ではないでしょうか。これまでの「ガンダム」では力を持った主人公が、戦争に巻き込まれる中で様々なことを経験し、その力に相応しい役割を担っていく、というのが王道でした。水星の魔女は学園ものとして始まり、主要登場人物の大半は子どもです。これ自体は「ガンダム」らしいと言えます。しかし、本作ではその子どもである部分が強調されています。ケナンジさんがいい例です。ラウダについては、兄がいなくなり、父が死に、そして会社を守るためにいきなりCEOを任され、グエルが戻ってきたときには安心のあまり気絶しています。しかし、その兄は前ほど頼ってくれなくなり、唯一の支えの恋人も意識不明になり、とうとう一人になりました。ラウダは兄を殺すことで、ラウダ・ジェタークとして無理に一人前になろうとしていましたが、ガンダムを破壊されたことでそれができなくなりました。ここでグエルが死んだら、誰がラウダを子どものままでいさせてくれるのでしょう。
 そしてそれはグエルにも言えて、グエルは一人で父殺しの罪を背負うことを決めていました。それはグエルが自身をもう大人だと思い、一人でやらなければならないと思っているからです。しかし、そんな必要はなく、辛いことは共有していい兄弟がおり、そしてそれを見守ってくれる仲間がいるのです。もちろんそれを象徴するのはフェルシーです。なんならフェルシーは作中でも子供っぽいキャラとして描かれています。そんな彼女に喧嘩を諫められるようでは、彼らもまだ子供です。
 つまり、今回グエル・ジェタークが死ななかったことは、ラウダだけでなく、グエルも含めて、彼らはまだ子供であり、ゆっくり周囲と一緒に大人になっていけばいい、という製作陣の願いが込められているのではないでしょうか。

 

 この解釈の是非もあるでしょう。この価値観の是々非々もあるでしょう。しかし、これ自体が願いであることを忘れてはいけないと、私はそう思います。最終回楽しみにしています。