あくいの孫

25歳まで大学生やってた人間です

空腹、緩やかな

帰りが遅い。

端的に言って、残業が最近増えてきた。というのも任される仕事が増え、同時に間に合わない仕事が増えてきた。それは慣れなさから来る心理的負担を伴ってもくる。
そんな状態に集中力などあるはずもなく、整然とした業務ルーティンは崩壊して当然だ。よって遅くなる。

本当に疲れている、とはこういうことを言うのかと思うほど、何もできなくなる。『花束みたいな恋をした』の麦くんが、床に寝転がって、焦点のあってなさそうな目でパズドラをやっていたことを思い出す。
何もできない、ということを感じる。身体は頭に半端な重たさを加えただけで、何か全力で訴えかけてくるわけでもない。ただただ半端に重い。

何もできない、となると当然家に帰ってからの自炊など辿り着くわけもなく、弁当を買いに行ったり外食をしたりするわけだが、時々妙に空腹を味わいたくなる時がある。
空腹を味わう、ひどい日本語だ。空腹に味なんかあるわけがない。どれだけ人をバカにすれば気が済むのか、書きながら少し腹が立ってきた。
だが、何かを食べているときのように、空腹も身体に感覚を促す。腹が減っているという感覚、何か食べたいというごく単純な感覚。腹部を中心にじんわりと身体に巡ってくる。妙な、とても奇妙な心地よさを、それに感じている。
半端な重たさを簡単に超えて巡ってくる感覚は、生きている身体を思わせてくれる。何もしていないが、何もできないが生きていると思わせてくれる。心地よい。とても、心地よい。とても、心地よく、そのまま、眠って、しまいたい。

夕立

6月23日19時過ぎ
仕事が終わり、いつも通り3車線の広い道を、車で流していく。
雨が降っていた。19時を過ぎても九州の空はまだ日が差していて、オレンジ色をしていた。19時を過ぎても夕空に振る雨は夕立と言っていいのだろうか。車内に広がる、服が肌に張り付くようなジトっとした空気から、逃げ出せずにいた。

 

高校生の頃、栃木県の宇都宮市に住んでいた。高校までは自転車で通学していたが、それでも20分はかかるため、雨の日でも学校指定の白い雨合羽を着て通学していた。雨合羽は、暑いし蒸れるし視界悪いしで、大嫌いだった。けれど、ほぼ毎日雨合羽を着る時期があった。夕立の降る夏場だった。
宇都宮は夏場になると夕立がかなり多く、たとえ午前は雲一つない快晴でも、夕方になると急に雷を伴った豪雨の降り注ぐ日が大半だった。夕立が降ると、ジメジメしていた夏の暑さが、より質感を伴ってやってくる。当時文化部だったため、室内から夕立の到来を眺めていたが、クーラーの効いた涼しい教室に居ても、いつかはやがて、その感覚と共生する運命にあった。

似たような感覚は、大学進学を機に東京に移り住んでからもあった。年々暑さを増していく中で、電車通学になったものの、その感覚からは逃れられなかった。冷房の効いた車内でも、60%が水分でできている人間が溜まれば、途端にその感覚に塗れてしまう。加えて酸素も薄くなる。大学へ向かう電車の中で、よく電車酔い、もとい人酔いをしていた。

社会人になり、神奈川へ移り住んでもそうだった。初めての一人暮らしに選んだ家は、雨の日には窓が開けられず、部屋中に雨の澱が溜まったようだった。そんな日は呼吸がしづらく、寝苦しさもあってか、首の締まる夢をよく見た。

きっと、関東平野に居を構える限りは逃れようのない感覚だ。30℃超えが珍しくなくなった日本の夏で、湿気と人間の吹き溜まりとなったこの地方では、風情と呼ぶのは現実逃避の他ないほど、当たり前の日常だ。

 

4月から、九州へ転勤になった。
新しい土地は何にせよ気分をカラッとしてくれる。17時になっても18時になっても、被の沈まないこの土地は、太陽の近さと空気の違いを感じさせてくれた。

6月になり、梅雨を迎え、雨がよく降るようになった。雨の日の運転はそれだけで怖い。太陽を遮り、視界を塞ぎ、集中力を欠かせた。九州でもこの感覚からは逃れられなかった。

夕立じゃなかろうと、関東じゃなかろうと関係ない。
結局、夜になっても雨は降り続いてた。

重たさ、重さ

最近引越しが決まった
なんてことはない、国内の引越しだ
すぐに帰ってくるだろうし、あまり考えてもしょうがない
でも人には伝えなきゃいけない
なんてことない引越しだけど、それでも一応、伝えるべきことではある

何回か、何人かに、既に伝えた
出てくる時の言葉が重たい
首の後ろに引っ張られるような、何かがある
でも喋り出すと、置いていかれるような、言葉の中に自分がいないような、重さのない言葉だけが飛んでいってる
重い軽いじゃなくて、重さが無いのだ

『これはただの夏』思い出してもただの夏

『これはただの夏』著:燃え殻

読了。本当にただの夏。みんなで計画して行った旅行ではなく、全力で準備して作り上げた夏休みのお祭りでもない。
本当にただの夏。出来事に流れに身を任せただけの、ただの夏。でも、「これはただの夏」と、わざわざ言い聞かせてしまいたくなるような、歯痒さがあった。

正直、かなりだらだらと読んでいた。寝る前に読むには、そこまで感情が揺れなさそうでちょうど良さそうに思っていた。

ここ数日、仕事がきつかった。トラブルシューティングに時間を取られて、帰れたのは毎日21時過ぎだ。
仕事を辞めたいとは思わない。でも続けられる自信がない。
やっと金曜日になって、酒飲んで何か見て発散しようかと思った。好きなYouTubeを見た。笑った。動画の中で笑ってる時に合わせて、笑った。リズムゲームみたいに、会社で談笑してる時みたいに、笑った。

これから友達何人かで飲みに行く。そこそこ楽しみだ。うまく笑えるだろうか。
電車の時間が長いので、残り数十ページくらいなので、読み切るにはちょうどいいと思って持ち込んだ。好きなアジカンの曲を聴きながら、文字をなぞった。立ちながら読んでたので、途中ふらついて前の人に倒れ込みそうになった。

出町柳パラレルユニバース』が流れる。

思った通り 誰もいない
特別な恋の 予感もしない

何でもない、何でもない日々だ。
なぞっている文字は、夕暮れだろうか、夏の市民プールを描写する。

そのとき、季節風のような心地いい風が僕の背中からプールサイドのほうに吹き抜ける。その風に誘われるように明菜がこちらを振り向く。
逆光の太陽が、視界を妨げる。植物の匂いがした。

何もかもを、思い出したように子供の頃の記憶が浮かぶ。去来する。飛び込み台から、怖くて飛び込めなかった夏が。
ランダム再生のプレイリストからは『エンパシー』が流れていた。

よーい、ドンッ!

プシュー
音を立てながら扉が開く

スタートの合図だ
みんな一斉に駆け込んだ

押し合い圧し合い、後ろから
押し合い圧し合い、前へ進む

プシュー
後ろの方で扉が閉まる

たまにフライングしちゃう人がいる
フライングすると失格で、もう二度とスタートできない
フライングしてもスタートの時間は変わらないのに

プシュー
前の方で扉が開く
スタートだ

たまに思いっきり走る人がいる
でもだんだんだんだん、みんなと一緒
同じペースになっていく


プシュー
帰りも一緒

押し合い圧し合い、後ろから
押し合い圧し合い、前へ進む


あれ?ゴールってどこなんだろう
まだまだ全然見えてこない

急がなきゃ
よーい、ドンッ!

或る日 19時過ぎ

奇妙な経験をした。

私は19時過ぎ、いつものように電車に乗っていた。
都会の多くの人がそうするように、業務を終え、会社を出て、電車に乗った。
満員電車だ。体を動かす余地はほぼなく、せいぜい首を傾けてスマホを見るか、外の景色を眺めるくらいしかできない。
それでも乗りさえすればいつかは最寄りに辿り着くのだからありがたい。
私はいつものように満員電車に体を押し込み、Twitterを眺めて、時が過ぎるのを待っていた。
その時だ。

Twitterのタイムラインがなかなか更新されないなと思い、ふと外を見た。
19時を過ぎると暗くはなるが、たいていは街の灯りが見えてくる。
しかし、その時外には何もなかった。
何も見えなかった、の方が正しいのかもしれない。街の灯りや建物の輪郭が、ただ見えなかっただけかもしれない。
だが、私には外に何もないように感じられたのだ。灯りや建物どころか、自分たちの乗ってる電車が果たしてレールの上を走っているのか、そもそも今この車両は地面の上にあるのかさえ、わからなかった。
なぜだ。そういえば身体が揺れていない。周りの人ともぶつかり合ってない。

「止まってる……?」
自分が発したのかと思ったが、どうやら隣の人の声らしかった。
しかし、みんなが同じことを思っていたのか空気が変わった気がした。
さっきまで自分と同じ様にスマホを見てた人がキョロキョロし出し、座ってた二人組はふと見合っていた。
そういえばアナウンスもない。停車したり遅延したりする時はアナウンスがあるものだ。何もなかった。音のしない電車の中では、次の駅の案内が無意味に流れているだけだった。

威嚇するように読書する

 スーツによって縛り上げられた自分の身体は、順調に"社会人"と化しつつある。
 4月から新卒で働き始めた自分は、毎朝6時には起きて、満員電車に乗り、研修を受け流しては、夜6時に帰る生活を続けている。正直まだ一ヶ月と経っていないというのに、こんなにつらいと思わなかった。
 眠い身体を無理矢理コーヒーで覚醒させ、上司の評価を気にして胸を張り続けなければならない状況は、想像以上に日常の自分を蝕んでくる。マナー講座で受けた礼の仕方を飲食店でもやってしまうし、スーツを着て偉そうに疲れた顔をするおっさんは、(取引先だったらどうしよう)と思って、誰彼関係なくヘコヘコしそうになる。
 特に通勤時間は大変だ。まだ労働ではないが、会社に向かうための、頭の中が切り替えられつつある時間だ。絶対に満員電車に乗るので体調も悪くなるし、おまけにスーツのおっさんも多い。最近は席に座れなかったら、かなりイライラしてしまう。きっとこれが"社会人"になるということだと考え、感情を抑え込もうとしたが、余計にイライラし、目の前のおっさんをブン殴りたい衝動にすら駆られた。
 だからこそ、威嚇するように読書を始めた。逃げるのではなく、威嚇だ。感情を読んでる本のタイトルで表現してやろうと思った。ブックカバーをせずに、自分の内心をまじまじと見せつけてやろうと思った。

 そこで最初に選んだのは『死なないための暴力論』(著:森元斎)だった。読みかけの本だったので都合も良かったし、何より朝の回らない頭でも読みやすかった。著者の森さんは長崎大学で教鞭を取る人で、現在の大学生が求めるものを理解しているからか、口語調で書かれて場面も多く、もはや大学生舐めてるだろと思う程度には優しい文章になっていた。(あと自虐の仕方が森見登美彦っぽく感じた。)
 内容も現在の自分には良かった。働き始めたとはいえ、自分は社会に染まり切って、クソどうでもいい仕事で他者を圧迫し続けるような生き方には、できる限り抵抗して行きたいと思った。この本はそのための先人たちの戦術・戦略や、振るうべき暴力のあり方を示してくれる。また、ガンディーやネルソン・マンデラの行った非暴力運動が、味方をつけるための"賢い"やり方であるとして、デモ批判の文脈でインターネット軍師たちに持て囃されてはいるが、その欺瞞の打破にも一役買っている。
 この本の最も良いところはタイトルがセンセーショナルなことだ。「死」と「暴力」、この2つがあるだけで嫌悪感は止まらないだろう。そもそも世の中の大半の人は、「暴力」と「論」が結びつくことなど想像しないだろうし、そんな野蛮な本を読む若者を前にしたおっさんは、(けしからん奴だ)とイライラすること間違いなしだ。その意味で、この本は最適だった。

 他にも幾つか読んだが、あとは『布団の中から蜂起せよ:アナーカフェミニズムのための断章』(著:高島鈴)だ。この本については後ほどより詳しく書こうと思うが、一度ここで触れておきたい。
 まずタイトルがいい。朝の満員電車で「布団」という文字が見えれば、お家を恋しくさせるし、「蜂起」という言葉もわかりやすく反体制的でセンセーショナルだ。少なくとも"社会人"が読むような本ではないことが一発でわかる。染まりたくない無邪気な若者の証左でしかない。
 森さんの本が、抵抗のあり方として「陽」とするなら、高島さんの方は「陰」だ。中身は高島さんのエッセイで、過去の失敗や後悔と、本や映画の内容を重ねながら書いたり書かなかったりしている。たいてい自身の失敗や後悔はそのままだが、(それでも)と思って抵抗する意志を保つための想いを語ってくれた。抵抗に成功する方法を教える森さんの本とは対照的だ。だが、「陽」と「陰」に必ず「核」となるものがあるように、この2つの本は「抵抗」という文脈で繋がっていた。
 
 朝、電車に押し乗り、吊り革に捕まって身体を安定させる。安定させたところで本を鞄から取り出し、目の前の人に見せつけるように本を開く。
 本は現実と自分を分断し、書き手と自分の2人だけにしてくれる。現実と向き合うのは本に任せる。これが自分の内心なのだと、本が勝手に証明してくれる。スーツに縛り上げられた身体は、社会に染まった人間のように映るが、内心は見せていない。これが自分なりの、"社会人"にならないための抵抗なのだ。本に威嚇してもらおう。